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「在日済州人の誕生」
2011.11.11 (今) 文京洙 contributor@jejujapan.com

  在日済州人の歴史   1 

 

   
1.『北済州郡半世紀』北済州郡 2.『図説朝鮮地理風俗下』民俗苑 3.『図説朝鮮地理風俗下』民俗苑 4.第2君が代丸:『済州100年』済州道 5. 金明植:『済州抗日独立運動史』済州道 6. 君が代丸のなかの出稼ぎ労働者:『近・現代済州教育100年史』済州特別自治道教育庁

「三姓神話」で知られる済州(耽羅)の開闢神話で箱舟に乗ってやってくる3人の姫が、一説では日本から来たとされるように、済州と日本の関係ははるか太古の時代にさかのぼる。『日本書紀』をはじめ古文書には済州と日本との行き来を物語る記述が少なくない。康熙48年(1709年)版の『耽羅地図序』には日本語の通訳官を養成した学校のあったことを示す記述もあるという(泉靖一『済州島』)。だが、理不尽な「出陸禁止令」(1629~1830年)の下に置かれた朝鮮時代の後期、済州人は200年もの間、島を出ることを禁じられた。済州人にとっては日本も遙か彼方の未知の国となってしまったのである。

そういう済州人がふたたび日本(日本人)と向き合うことになるのは、日朝修好条規(江華島条約1876年)によって朝鮮王朝が開国を強いられてからのことである。この不平等条約によって朝鮮海域への日本漁民の出漁が増え、済州島の海にも西日本の潜水器業者たちが進出した。朝鮮の海産物市場は、戦争や侵略で日本の領土が拡大するにつれて広域となり、これに応じて済州のチャムス(海女)たちの島外への出稼ぎも始まる(伊地知紀子「韓国・済州島チャムスの移動と生活文化」『等身大のグローバリゼーション』)。済州のチャムスの日本への出稼ぎは1903年、金寧の船頭が数名のチャムスを引き連れて東京の三宅島に向かったのが始まりだった(『枡田一二地理学論文集』)。陸地の朝鮮人については、すでに1897年に佐賀県の長者炭鉱に集団で出稼ぎに来ていたことが記録に残っている。日露戦争(1904 - 05年)の頃には、沢山の朝鮮人の人夫が西日本の各地で炭鉱や鉄道敷設工事の現場で過酷な労働に従事した。済州人については日本行きの先駆けは、チャムスたちであった。開国後の日本は、治外法権をもつ欧米人や中国人に内地雑居を許さず、その居住や移動を制限していた。しかし、皮肉なことに、日本で治外法権を持たない朝鮮人は外国人居留地の外で住むことも働くことも認められていたのである(山脇敬三『近代日本の外国人労働者問題』)。

三宅島で能力の認められたチャムスたちの出稼ぎは、その後も増えつづけ1918年には240人ものチャムスが三宅島で操業した。さらに、済州・大阪を結ぶ直行路が開設した1920年代、チャムスの出稼ぎは四国(徳島、高知)や九州(熊本、鹿児島)、さらには静岡、千葉にまで及んだ。こうしたチャムスの日本での操業については次回以降に紹介する。

集団出稼ぎの人夫やチャムスたちと並んでこの頃日本にやってきた朝鮮人は外交使節や亡命政治家、そして留学生たちであった。公式の記録(『日本帝国年鑑』)では日本にいた朝鮮人が1905年で303人、韓国併合前年の1909年で790人とされているが、その大半は留学生たちだった。済州島からの最初の留学生に金明植(1889~1943年、朝天出身)がいた(金昌厚「在日済州人の抗日運動」『済州抗日独立運動史』)。早稲田大学に学んだ金明植は、1912年に組織される「朝鮮留学生学友会」の幹事や会長を歴任し、三・一独立運動以後、ソウルに渡って『東亜日報』で主筆をつとめたり、『新生活』という雑誌で反日の論陣を張ったりした。社会主義者として2度も服役した抗日運動の闘志として歴史にその名を刻んでいる。

この頃日本に渡ったチャムスや留学生たちは、第1次世界大戦(1914~18年)以後、にわかに増加する済州人の渡日の先駆けとなり呼び水となった。だが、1900年を前後する時期から日韓併合を経て、第一次大戦までの朝鮮人の渡日は、集団出稼ぎがほとんどで日本での滞在も短かった。在日朝鮮人の人口が3万人を超えて急増する1920年代には、単身での出稼ぎが増え、20年代の後半からは家族を呼び寄せて日本に住み着くものも増えた。日本に定着した朝鮮人の9割前後は、慶尚道、全羅道、済州島の出身者であった。よく知られているように、済州人の主な渡航先は大阪だった。とりわけ、大阪・済州島間の直通航路「君が代丸」(尼崎汽船会社)が1922年10月に就航すると、済州人の大阪への渡航者が急増する。大阪への年間の渡航者は1922年の3500人からピーク時(33年)には3万人近くに増え、在日済州人は1万人から5万人へと膨らんだ。33年には、実に島の人口の四分の一が日本にあるという異常な事態となった(済州島廳『済州島勢要覧』1937年版)。

大阪にやってきた朝鮮人のなかで済州人がどのくらいの割合を占めたかについては、その頃済州島は全羅南道に属していたので正確に知ることは出来ない。1923に大阪職業補導協会が大阪東部の朝鮮人1000人を対象に実施した調査では、6割余りが済州出身者であった。

大阪は、第一次大戦以後、世界的にみても最もダイナミックな発展を遂げた都市の一つで、朝鮮人だけではなく、近隣の農村被差別部落、さらには遥か遠くの沖縄などからの人口流入の最大の受け皿となっていた。そういうなかで済州人たちの多くは、1925年の市域拡張で大阪市に編入された東成区を中心とした大阪東部の新興工業地帯に住んだ。低湿地で日本人ならば住みたがらない土地にバラックの家を建てたり家を借りたりして済州人のコミュニティーが形づくられていった。済州人の第二の故郷ともいえる猪飼野もこの東成区にあった。猪飼野に済州人のコミュニティーが生まれる背景や経緯、そこでの在日済州人の暮らしぶりについては次回としたい。

 

文京洙(プロフィール)

1950年東京生まれ、父母が旧左邑金寧里出身。日本の中央大学卒、国際基督教大学教養学部助手などを経て、現在、立命館大学国際関係学部教授。主な著書に『済州島現代史――公共圏の死滅と再生』新幹社、『韓国現代史』岩波新書、『在日朝鮮人問題の起源』クレイン、『済州島四・三事件:島(タムナ)のくにの死と再生の物語』平凡社などがある。1988年から98年まで在日の「四・三事件を考える会」会長をつとめ、現在も関西を中心に四・三事件のとりくみをおこなっている。

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