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顔に刻印された済州四・三
2011.11.06 (日) 金蒼生 contributor@jejujapan.com

 「済州島」を生きる   

   
▲ 木綿布のお婆さん 写真提供:済州4・3平和記念館
主(あるじ)を失った家に灯りがともされている。二間きりの小さな家だ。家を取り巻く石垣から線香の香りがただよっていた。箪笥と布団以外には何も無い居室に祭壇がしつらえてあった。大人二人が並んで額づくと互いの体が触れる狭さだった。家の主は『木綿布のお婆さん』と呼ばれていた。

彼女の忌日の9月8日に月令里の海辺で「地域住民とともに行うチン・アヨンお婆さんの家保存文化祭」が開かれた。日が暮れ、海に漁火がともる頃、村人たちや参加者たちが三々五々、会場となった海辺に集まってきた。故人を偲ぶ歌が歌われ、済州島共同体をテーマにした寸劇に笑い転げ、文化祭の終わりには皆が一緒になって体を揺らし踊った。会場から数分の故人の家で祭祀が行われていた。寄進された豚一頭が屠られ、参加者二百余名の夕食が準備されていた。丸い大皿が積み重ねられている。大鍋にスープ、野菜のナムル、蒸豚にキムチ、デザートに餅。長テーブルと折り畳み椅子がズラリと並べられた横で、村の若い女性たちが腕まくりをして食べ終えた食器を洗っていた。ひなびた海辺の村の一角が煌々と明るく、故人を偲ぶ人々で賑わっていた。

彼女は、韓国現代史において半世紀にもわたって封印されてきた済州島四・三事件の生き証人であり、象徴だった。日帝植民地支配の36年を耐え、解放となった朝鮮最南端の済州島で起こった四・三事件。当時の朝鮮半島を取り巻く情勢は統一祖国か、分断かの岐路にあった。38度線以南で実施されようとした単独選挙に抗い、米軍政をはじめとする極右勢力への抵抗を旗印に、済州島武装隊が蜂起した1948年4月3日。その日から、李承晩政府の過剰鎮圧により、6年6ヶ月にわたって済州島は流血の事態に陥った。

1949年1月13日、ここでは仙人掌(ソニンジャン)と呼ぶサボテンの群生地である北済州郡翰林で、35歳のチン・アヨンは下顎を失った。食料調達のため、村に押し入った武装隊を攻撃するために出動した警官の流れ弾に当たったのだ。顎を吹き飛ばされた彼女は、ただ布をあてがわれただけだった。治療はおろか、消毒液さえ手に入らない状況のなかで、稀に見る生命力の持ち主だったのだろう、彼女は生き延びた。以来、彼女は頭から顎までをすっぽりと木綿布で覆った姿で、その後の55年を生きた。

壁際の箪笥の上に彼女の遺品がガラスケースに納められていた。彼女の頭から顎までを覆っていたのは、一枚の布ではなかった。それは帽子のように頭にかぶり、両側から垂らした布で吹き飛ばされた顎を覆うつくりになっていた。四六時中必要なものゆえに、知恵を絞って作られたものであることが見てとれた。それが三点。女の35歳といえば、命の輝きに満ちた年齢である。部屋にはチョゴリ姿で正装した若い頃の写真が飾られていた。眉の濃い意思的な顔だった。

彼女が顎を吹き飛ばされた1949年1月の済州島は、討伐隊の焦土化作戦により、人命被害が極限に達した時期である。村ごとに割り当てられた討伐の頭数を揃えるために、罪の無い人々の命がいとも簡単に奪われた時期だ。彼女の生まれ故郷である板浦里でも、このとき10数名が一瞬にして命を奪われた。

遺品のなかには大小の錠前と鍵束があった。済州島は三多―女・石・風が多く、三無―乞食・泥棒・門が無いといわれる島である。彼女は近くの畑に行くのでさえ、箪笥に鍵をかけ、家の出入り口にも鍵をかけねば出かけられなかった。万事に疑り深く、村人たちと絶えず諍いを繰り返していたそうだ。彼女の言葉は相手に伝わらない。もどかしさに癇癪を起したことだろう。しかし、何千回となく絶望の淵に立たされながらも、彼女は決して自分の人生を手放さなかった。肉体的にも精神的にも四・三の後遺症に苦しみながら、彼女は済州島女の気性そのままに粘り強く生きた。海辺で貝や海草を採り、棘の鋭い仙人掌の実を集め、他人の畑の草取りをして、爪に火をともすように金を貯め、それを理由(わけ)あって別れて暮らしている子供たちに遺した。遺族はそれを全額、村の養老院に寄付したという。

   

▲ (上から) 若い頃の写真と遺品が納められたガラスケース、月令里の海辺で行われた文化祭

撮影:金蒼生

日本で暮らしていた頃のこと、「済州島四・三事件五三周年慰霊の集い」で彼女のドキュメントビデオが上映された。会場にはお年寄りが多い。命からがら密航船で渡日して難を逃れた四・三事件の遺家族たちだ。カメラの前で彼女は顎を覆っている布をとった。暗い会場のそこかしこでおおっ、ああっと悲鳴に近い声があがった。死が身近にあった在日の遺家族にとって、間髪の差で自分であったかも知れない凄惨を見たのだろう。次いで会場は静まりかえった。顎が無いと言葉は言葉にならず、咀嚼もできない。内臓に負担がかかり、週に一度は点滴を受ける。彼女は食事をする姿を誰にも見せたことが無かったという。

恨(ハン)多い人生を生き抜いた木綿布のお婆さん。2004年に90歳であの世に旅立たれた彼女の家を保存しようと多くの人が尽力した。水道は庭の片隅にあり、トイレは隣家と共同だった。基金を集め、雨漏りのする天井に防水工事がなされ、新しい壁紙が貼られた。庭には芝がはられ四季折々の花が植えられた。いつでも誰でもが、この家に立ち寄れるように、小さな門は開け放たれており、家にも鍵はかけられていない。

忌日の10日後に「四・三巡礼」で彼女が銃弾を顎に受けた現場に行った。映像のなかの彼女を思い出す。50年ぶりに取材班と共に彼女は生家近くの現場に赴く。村は変貌していた。戸惑う彼女。しかし、曲がりくねった畦道や道標代わりの木や石垣に、ああ、ああと懐かしげな表情を浮かべるが、それはすぐさま恐怖へと変わる。車の陰に隠れ、遠くを指差し、顔をゆがめてうずくまる。ひっきりなしに何かを叫んでいるが言葉にはならない。彼女の人生を大きく変えたその現場、私の脳裏に焼きついた10年前の映像、その現場に私は立っていた。残酷な歳月を生き抜いた木綿布のお婆さん。静謐な秋の午後だった。カササギが梢を揺らし、枝から枝へと飛び立った。

 

金蒼生
1951年生。日本の大阪で生まれ育った在日二世。作家。著書に「わたしの猪飼野」「赤い実―金蒼生作品集」「イカイノ発コリアン歌留多」「在日文学全集10巻」所収。訳書「済州島四・三事件   第六巻」など。2010年10月、済州島に移住。
 

 

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登録番号 : Jeju Da 01093   登録時間 : 2008年 11月20日   発行人 : 宋姃姬
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