出来事や人物を顕彰するに際しては、時代のイデオロギーや権力が多少とも関わっており、女性の場合もその例に漏れるはずがない。そんなものとは距離を置いて生きたい、などと幾ら歳をとっても駄々をこねている僕などは、烈女、義女と貞女といった言葉とその顕彰となると、たちまちのうちに怯えたり警戒する。しかしそんな僕でも、済州の代表的な女性像をかいつまんで紹介しようとすれば、少しはそこに踏み込まざるを得ない。
さて済州の女傑といえば、まずは金万徳(1739~1812)を上げねばなるまい。幼くして両親を亡くし、身寄りがないので否応なく妓女の籍にいれられたが、その後、努力を重ねてその身分を脱することに成功し、さらには、妓女時代に培った教養や人脈を活用しつつ驚くべき商才を発揮して、済州で有数の財をなすに至った。但し、それだけのことなら、ありふれた成功物語に過ぎない。万徳の真価はその先にある。彼女はその全財産を投げ打って飢餓にあえぐ済州の人々を救ったのである。その功が時の王様に認められて、長きにわたって済州の人々、とりわけ女性を縛っていた出陸禁止令という理不尽な法律の唯一の例外として、陸地に赴くことを許されるばかりか、王様に拝謁の機会まで得て、さらには、褒章として金剛山観光まで果たした。済州の市街地のはずれ、国立博物館の背後の沙羅峰の麓には、彼女を讃える記念碑が高く白く光り輝いており、テレビドラマにもなった彼女の事績を求めて、全国から観光客が訪れる。但し僕のようなひねくれ者はやはり、その立派すぎる碑に戸惑い、むしろ、その碑が建つ高台のはるか下方の木陰にひっそりと佇む、小さくて古ぼけた彼女の墓標とその両側の慎み深い童子石の姿に、しみじみとした気分になって、彼女を偲びたいと思う。尤も、威容を誇るその碑のおかげで、その墓標の真価に気づくというようにも言えないことはなく、その意味では、碑建立時の政治的思惑はさておいて、その碑も本来の意味とは正反対の方向で、それなりの役割を果たしているということにもなる。
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▲ (左から) 姜平国の墓碑(カトリックの共同墓地にある)、 金万徳記念碑 撮影 : 玄善允 |
近代にあって、前近代における万徳に匹敵する女傑がいる。植民地下で抗日運動に生涯をささげた姜平国(1900~1933)、済州の近代女性の鏡と称されている。済州の女性教育の揺籃であった晨星女学校を出た後、ソウルに上がり植民地下の近代教育の精華を身に着け、さらには済州女性で史上初めての日本留学を果たした。それでいて、通常の社会的上昇の道に目もくれず、日本の帝国主義統治に一貫して反旗を翻す。そのために、投獄・拷問の憂き目にあい、それが彼女の命を縮めた。その墓が禾北洞のファンサンピョン天主教共同墓地にある。そしてその広大な墓地には、彼女の盟友でありながら、夭折した姜平国とは正反対に、生涯を通じて栄誉に包まれて天寿を全うした崔貞淑(1902~1977)の墓もある。
崔は晨星女学校で姜平国と共に学び、さらにはまたソウルでも共に中等教育を修め、共に3・1独立運動に参加する。その後は、済州に戻り、女性教育、女性運動の中核として活躍し、済州で初めての女性教育監になるなど栄誉に栄誉を重ねてこの世を去った。
以上の3人はすべて生涯独身を貫いたのに対し、その正反対の女性がいる。二度も結婚し離婚するといった、韓国では相対的に儒教イデオロギーの影響力が弱く、離婚、再婚に関してもタブー意識が薄い済州ならではの経験の果てに、目覚めて女性社会運動家になった金時淑(1880~1933)である。病に倒れてこの世を去ったのが日本の大阪であったのだから、大阪生まれ大阪育ちでほとんど大阪のことしか知らない在日済州人二世の僕としては逸するわけにはいかない。
2度の結婚に敗れた後、遅まきに人生の模索を始めた彼女は、親戚の知識人の助言を受けて文字を学び、本を読み始める。そして、上述の姜平国、崔貞淑などずいぶん年下のインテリ先覚女性たちの影響も受けて、女性夜学運動をはじめとして社会運動にまい進した結果、要観察の烙印を押されるばかりか投獄の憂き目にまであった。しかしひるむことなく、その後は日本に渡り、辛酸をなめている同胞女性を救うために在日女工保護会を組織し、労働消費組合の会長になり、女工たちの福祉問題を解決するための運動の先頭に立ち、自身を省みることなく活動した。そしてついには過労で倒れ、1933年7月15日、大阪の地であの世に旅立った。
その墓が朝天邑の中山間村のはずれの金海金氏共同墓地の中の、保護樹木に指定された巨木の脇にあって、あたかもその保護樹によって保護されているような趣なのだが、それよりも注目すべきは、彼女の死を悼んで仲間の女性たちが募金を集めて立てた碑石である。そこには、なんと男性の金順欽が当時としては卓越したフェミニズム的な碑文を献じている。その碑文を見ると、金時淑の偉大さは言うまでもなく、当時の男性にもここまでの洞察力のある人がいたことを知って、男性である僕としては嬉しくなる反面、後世の僕が、その内容に同意しながらも、その認識を実践しているのかどうか後ろめたさも否めない。だがともかく、そうした反省の機会を与えてくれるだけでも、碑文に感謝したい気にならざるをえず、その最後の一節を抄訳・紹介することによって、肝に銘じておきたい。
「壮絶な時代的犠牲者であり、忠実な女性運動家!あなたの体はたとえ、土くれになっても、あなたの血と汗は万人の生命として蘇る日が来るでしょう」。
まだまだ、その日は到来していない。だからこそ、そのための努力が延々と続けられている。
玄善允
1950年、済州島出身の在日朝鮮人を両親として大阪に生まれ、大阪大学及び大阪市立大学大学院にて仏語・仏文学を学び、日本の京阪神の諸大学にて仏語仏文学を講じる。フランス文学以外の著書・論文としては、在日論として『「在日」の言葉』その他があり、済州関連では「龍王宮再考―聖性を欠いた場における祈りと孤立した共同性」その他がある。済州大学校耽羅文化研究所特別研究員、大阪経済法科大学アジア研究所客員教授。
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