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朝鮮の両班たちにとって済州とは何であったのか?
2012.06.21 (木) 李映權 contributor@jejujapan.com

     李映權の済州歴史紀行        


「こちらの風土と人はいまだに未開状態から醒めきっておらず、その愚鈍さ無知さは、かの日本の北海道の野蛮人と何一つ変わらないのではなかろうか?」

秋史金正喜が済州を描いた一節である。ひどい偏見である。しかしながらそうした認識は朝鮮王朝時代の知識人に普遍的だったようである。16世紀に済州に流配されてきた沖庵 金淨の『済州風土録』にも「文字を知る者が甚だ少なく、人情が荒く」、あるいは「羞恥と正義が何たるかも分からず」などの表現が登場する。

それにも関わらず、朝鮮王朝時代の全期間にわたって、中央の両班(朝鮮の貴族階級)たちが済州にしきりに出入りしていた。本人の意志に関わりなく、済州に赴くことを余儀なくされた人々がいたからである。政府から派遣された地方官こそがその種の人たちだった。高麗毅宗の頃、初めて済州に地方官が派遣されて以来、朝鮮王朝が続く限り、それは絶えることがなかった。

ところがそんな彼らが、済州に赴任するのをひどく嫌った。左遷だったからだ。そのうえ、海を越える途上で、命まで失うということになりかねなかった。それだけになおさら、済州は忌避の対象とならざるをえなかった。

そこで、朴安臣や鄭麟仁のように妻や自分自身の病を口実に赴任しない場合も時にはあった。また元百揆のように、さして理由もないのに赴任しないでいるうちに、罷免されるという事件も発生した。或いはまた、致し方なく赴任はしたものの、数日後には病を口実に辞職して済州を去る者もいた。さらには、中宗の時代、済州牧司であった 宋麟壽のように、政府の許可を受けないままに済州を去りソウルへ戻ってしまうような者もいるほどだった。

そんなわけだから、済州にやってきた地方官たちが善政を施すなんてことは稀だった。彼らにはソウルへ戻ることだけが主たる関心事であった。済州牧司が勤務していた官庁には、「ソウルを眺める楼閣」という意味の望京楼があるほどだった。それも官庁の建物の中でも最も規模の大きな建物だった。その事実一つをもってしても、地方官の心理が端的に分かる。朝天にある恋北亭もまさしくそれである。「北方を思慕する亭」。思慕の対象であった北方とは他ならぬソウルの王様を意味する。それほどに彼らにとって済州島は一日でも早く去ってしまいたい未開の土地だったようなのである。

地方官以外でも、望まないのに済州島に来ることを余儀なくされた朝鮮時代の両班たちがいた。権力闘争の結果、左遷よりもひどい罰として追い出された流配人がそれである。流配刑は終身刑なのだから、本来はここ済州で最後を迎えねばならないものだった。しかし、政局の変化が生じれば、彼らも復権し、元の地位に戻ることが可能だった。だから彼らは、挫折に苦しみながらも、一時も希望を失うことはなかった。流配客たちこそは地方官たちよりも首を長くして北方の空、北の海を凝視していた人々だった。朝鮮王朝の両班たちにとって済州島はそれほどまでに呪詛の地、天刑の地だった。

恋北亭

   
▲ 恋北亭     写真提供:済州特別自治道

恋北亭は朝天浦の朝天鎮城上にある亭である。本来は城の外にあった客舎だと言われるが、確証があるわけではない。

朝天は禾北浦と共に、朝鮮時代の済州島の2大浦のひとつである。それより以前から館が設置されていたほどに人々の往来が頻繁だった。赴任する地方官や絶望にうちひしがれながら下ってきた流配人たちもやはり主にこの浦を利用した。

「朝天」という地名もその結果、生み出された。「見る」、「眺める」を意味する「朝」と「天気」を意味する「天」を合わせた地名なのである。本土に出て行く人々が気候を観測するところ、それこそまさしく「朝天」という地名の由来なのである。

不老草を求めてはるばるやってきた秦の始皇帝の使者が到着したという「金堂地」もここ朝天だったとする説がある。この浦の重要性を物語る逸話である。朝天は金尚憲の『南槎錄』にも登場する。「賦役から逃れるために、こっそりと本土に出て行くものが多いので、朝天と禾北の二つの浦に限って出入りを許可した」という記録がそれである。

その浦の脇に恋北亭がある。恋北亭の前身である朝天館(朝天の客舎)がいつ建てられたのかに関して正確な記録はない。口伝によれば高麗恭愍王23年(1374年)朴允淸牧司の時代に建てられたというのだが、それを傍証する資料はない。

それが文献資料として最初に現れるのは、宣祖23年(1590年) 李沃牧司の時代である。李沃牧司は「盗賊どもが行きかう要所であり、王命を受けた使臣たちが往来するところだからと館が置かれるようになったのだが、今では城が狭くなり建物も老朽しており、それをこのままにしておくわけにもいかない」と、城を東北に広げて積み、その上に防塁を安置して、それを双璧と称した。「双璧」は漢拏山と青い海、即ち、青山緑水が対面しているからと付けられた名前である。

その後、宣祖 32年(1599年)成允文 牧司が建物を増改修し「恋北亭」と改称した。思慕を意味する恋と北の文字を合わせて、北方を思慕するというわけである。その北方が何を意味するものであったかは容易に斟酌できる、そうなのである、北方とはソウルにおられる王様である。この亭に上がり、北方に開けた海を眺め、限りなく王様を懐かしんでいたわけである。王様に対する忠誠心を見事に表現した名称である。

しかし、はたしてそれは本当だったのだろうか。朝鮮王朝は何にもまして儒教的名分が優先した社会である。心中の思いよりも外面を重視した。恋北亭の「北」が王様を象徴するというのも、やはり名分である。それは実際には自身の政治的故 郷であるソウルを意味する。王に対する忠誠心はその外殻にすぎない。重要なのは自身の政権への復帰だった。もちろん、王こそがその権力に他ならないのだから、王を敬慕したというのもあながち嘘ではないのだが。

元々、済州島赴任自体が左遷だった。そんなわけだから、中央政界復帰のためにあらゆる努力をしたのも当然のことである。だから牧民のことなど後回しにされた。一日でも早く、この辺鄙な地方から脱出し、海を越えて、改めて出世の道を進みたいというのが、当時の大部分の済州の地方官たちの真情だった。

流配客の心中はなおさらだった。地方官とは異なり、流配は終身だった。政局が変わらない限り、島を脱出する手立てはなかった。だからこそ、彼らにとって「北」の意味は絶対的だった。境遇に差はあれ、ソウルからやってきた両班たちは一人残らずそのように北方を眺めて暮らした。

恋北亭はそうした彼らにとって希望の灯台だった。遥か遠くの水平線に船が一隻でも姿を現すと、つま先立ちになって眉間に神経を集中した。もしかしていい知らせでも載せた船がやってきたのではないか、という気持からである。恋北亭は、そんな彼らの正直な気持ちが投影された名称でもある。

恋北亭に上って海を眺め、その頃のソウルの両班たちを思い浮かべてみるのも、フィールドワークの面白味のひとつである。亭自体にはなんら見るべきものがない。復元されてさほど時日を経ておらず、古建築の美しさといったものも見いだせない。そのうえ、原型に忠実な復元なのかどうかも疑わしい。1702年に李衡祥牧司が制作した『耽羅巡歴図』の絵とは異なっているからである。『耽羅巡歴図』の「朝天操點」を見ると、現状とは異なり、恋北亭に登る階段が朝天鎮城内部にあったことが分かる。

   
▲ 『耽羅巡歴図』の「朝天操點」     写真提供:国立済州博物館

「朝天」という地名の由来についての異説も知っておいたほうがよかろう。「天地を謁見するために出て行く」ところという解釈もあり、秦の始皇帝の使者たちがここで「朝の天気を見た」というエピソードに由来するという説もある。


李映權(イ・ヨングォン)
1965年済州で生まれ、故郷で高等学校を終えた後にソウルに遊学した。高麗大学史学科を卒業後、そのままソウルで社会運動をしていたが、故郷に「借り」の負い目が募って、帰郷するに至った。済州の歴史研究とフィールドワークに精を出す一方で、済州大学校社会学科大学院に進学し、関心領域を広げつつある。現在、歴史の教師として高校に在職し、著書に『新しい済州史』、『済州歴史紀行』、『済州歴史、再検討』などがある。

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登録番号 : Jeju Da 01093   登録時間 : 2008年 11月20日   発行人 : 宋姃姬
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