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武器を持って戦った女たち
済州女性文化遺跡 連載4回目
2012.04.20 (今) 玄善允 editor@jejujapan.com

済州の女は昔から武器を持って闘うことも辞さなかった。倭寇の襲撃に対して朝鮮朝時代には3邑城、9鎮、25烽台、38煙台と多様な防御施設を築造したが、その人員が官軍だけでは足りなかった。そこで、当番制で各家から人を出して班をつくることになったが、済州では男性が海難事故で死ぬなどして人数を満たせなかったので、女性も立ち上がらねばならなかった。そんな女兵士たちのことを女丁と呼んだが、これは済州だけに見られた存在だった。

また20世紀初頭、カトリックの横暴と官吏の過剰な税収奪に対して民衆が反旗を翻した李在守の乱(映画にもなっている)に際してはそれに呼応して、カトリック勢力などが立てこもる済州城の門を開いて民乱の勝利に貢献したのも、女たちだった。その済州城は1910年、全国に下ろされた邑城撤去令によって壊され始め、今ではその一部、たとえば、五賢壇の上に復原された城跡だけが残っている。

因みに、その民乱に際してのカトリック関係者の殺害などの余韻は100年近くも続き、21世紀になってようやく正式に和解の儀式が行われた。

次いで近代に入っては、日本の植民地支配下にあって、立ちあがった女たちがいる。海女たちである。日本の官民一体となった収奪によって苦しめられていた海女たち300名以上が、極めて具体的かつ合理的な要求項目を掲げて、街頭行進を展開し、あげくは当時の済州島の最大の権力者であった日本人島司と直談判した。日本の植民地統治が過酷を極めていた当時にあって、これだけの大衆的決起をなしたのは全国でもありえないことであり、その固い団結心、生活に密着した要求、そしてその後の大弾圧にも屈せず持続的な闘争を展開できたのは海女たちの日常的な労働の現場で培われた同志愛の成果であろう。その戦いを記念する済州海女抗日運動記念塔は、旧左邑上道里の海女博物館の入り口に建てられているのだが、そこは、当時示威行進に参加した海女たちの二回目の集結地として象徴性が高い場所である。

ついでは、4・3の城(戦略村)での軍務である。「ナクソン」洞4・3城は、朝天邑臥屹里ナクソン洞に位置している。済州4・3事件が発生し、1848年8月大韓民国が樹立された後、済州道では海岸から5キロ以上の山側のいわゆる中山間村の掃討作戦が実施された。中山間村の人々は大部分が海岸村に疎開させられ、家には火が放たれた。その後、海岸村であれ中山間村であれ、人々を統制して、武装隊と住民たちを遮断するために、人々を特定の場所に集め、その村を取り巻く城壁を積み上げた。これは満州で日本帝国軍隊が展開した戦略を、当時日本帝国軍にいて、その後、大韓民国国軍の中心メンバーになった軍人政治家たちが自分の国で活用した戦略であったという。

   
 ▲ ナクソン洞4・3城跡の航空     写真提供:4・3事業所

「ナクソン」洞の城は4・3当時の城の中でもよく復原・保存がうまくいっているところである。現在、一部城垣と歩哨小屋、「ハンバ(日本語の飯場))」を復元しているが、僕はそこに行くたびに、なんともいえない寂寥感に襲われる。

そこには善屹1里、2里、臥山里の1200余名(250戸)が5年間暮らした。城内には警察支署があって、そこの警官は城内で一番の権力者だった。支署後援会、特攻隊、民保団、大韓青年団など、組織もいろいろだった。人々は警察補助として討伐活動をしたり、城垣の歩哨活動などを行った。女性もその種の仕事を免れることはなかった。既婚女性は警官に副食を提供し、未婚女性は女子韓青団に加入して、特別な訓練をうけ、歩哨活動にも積極的に参加しなくてはならなかった。どこにも属さない人々は身辺保障を受けることができないどころか、監視対象になった。歩哨小屋が9つあり、そのうち3個が女性用だった。毎日、5~6名が待機して2時間づつ交代して日が明けるまで守らねばならなかった。居眠りしているのを巡回警官に見つかれば、「団体気合い」で「びんた」を食らうなど、屈辱を受けた。女性歩哨勤務をした人々は咸徳国民学校や朝天国民学校へ行って射撃訓練なども受けたのだが、ユニフォームとして白いチョゴリと黒いモンペ(日本語のモンペがそのまま済州でも使われている)を着た。

済州4・3事件からほとんど時をおかず朝鮮戦争が起こると、済州女性の役割はさらに増えた。家族を食べさせ生き延びさせることはもちろん、歩哨勤務も強化されていった。朝鮮戦争以後には10代中盤の幼い男の子と老人たち、若い女性たちが城の歩哨の担当になった。彼ら彼女らには水の問題、食料の問題、衛生問題などが常に付きまとった。

   
▲ (左下)済州女性が銃を持って歩哨に立っている第2連隊の資料写真    写真提供:4・3事業所

しかし、済州4・3時件以後、復旧に全力を傾けた結果、1954年までには大部分の村が復旧された。ナクソン洞の城内で暮らしていた人々も1954年初めには元来の村に去ったが、20余戸は残り、村を形成して暮らした。「ナクソン洞」の高い城垣は畠の境界として、また風を防ぐ役割を果たしながら、この村の人々と生死苦楽を共にしてきた。

日常時も非常時も、済州の女たちの戦いはいつも続いていたわけで、見ようとする意欲さえあれば、その痕跡は現在の済州のいたるところに見つかる。観光が次第に生態観光、歴史観光の色合いを強くしている昨今、その延長で、いまだに生きているこうした歴史的な痕跡を訪ねてみて、今僕たちが謳歌している実は幾分きな臭さが漂う平和が何を礎にして成り立っているのかを考えてみるのも、精神の活性化に役立つのではなかろうか。

 

玄善允
1950年、済州島出身の在日朝鮮人を両親として大阪に生まれ、大阪大学及び大阪市立大学大学院にて仏語・仏文学を学び、日本の京阪神の諸大学にて仏語仏文学を講じる。フランス文学以外の著書・論文としては、在日論として『「在日」の言葉』その他があり、済州関連では「龍王宮再考―聖性を欠いた場における祈りと孤立した共同性」その他がある。済州大学校耽羅文化研究所特別研究員、大阪経済法科大学アジア研究所客員教授。


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