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玄基榮(ヒョンギヨン) 「順伊(スニ)おばさん」
済州4・3 − 憤怒と慟哭にかたちを与えた最初の文学作品
2012.03.23 (今) 金蒼生 contributor@jejujapan.com

凍てついた朝だった。帽子にマフラー、厚手のコートを着込んでいても、靴底から冷気が這い上がってくる。足踏みをしながら北村里(プッチョンリ)に向かう車を待つ。64年前の北村里は吹雪いていたという。済州市内から車で20数分、眼前には冬の凪いだ海が黒々と拡がっていた。会場脇の道路沿いには「済州4・3 64周年北村里犠牲者合同慰霊祭」参列者の車が数珠繋ぎに停められており、私たちの乗った車は会場からかなり離れた最後尾に駐車した。ヒーターの効いていた車内から降りると、剥きだしの頬がたちまちこわばった。きりりと引き締まった大気に、かすかな線香の匂いを嗅いだ。

   
▲ (左から)北村里の子どもの墓、「順伊おばさん」の文学碑   写真提供:済州4・3事業所

慰霊祭会場の「ノブンスンイ 4・3祈念館」は64年前の虐殺現場である。松林が冬風に梢を揺らしている。祈念館周辺の畑には石で囲われた赤ん坊の小さな墓が散見され、鉄分を多く含んだ赤黒い火山灰の地の一隅に「順伊おばさん」の文学碑が建てられている。その周辺には、まるで地が揺らいだ後のように、いくつもの石碑が横たわっていた。近づいて目を凝らすと『・・ああ、同じ日、同じ時刻にあちこちの家々から聞こえてくる慟哭の声、陰暦12月18日、昼間は方々で、犠牲(いけにえ)の豚が栴檀(せんだん)の木に首吊りにされてあげる悲鳴で村中が騒々しく、5百を越える鬼神(クィシン)たちが祭飯を食べに降臨してくる真夜中には、悲しい哭き声が部落を満たした』(以下の訳は金石範)と小説の一節が刻まれていた。てんでバラバラに散らばっている石碑は故無く殺された死者の姿であり、赤黒い火山灰は大地に滲みこんだ死者の血を現している。

   
▲ 新幹社発行 「順伊おばさん」
1948年陰暦12月19日の明け方、北村里の峠で武装隊が軍の車両を奇襲し、軍人2名が死亡する事件が起こった。これに対する報復として軍人たちは北村里に火を放って廃墟とし、村人を小学校に集め、300余名を11回にわたってノブンスンイの窪み畑で銃殺した。4・3事件が政府によって封印されたため、涙さえ罪に問われた時代に、玄基榮はこの「北村里事件」をテーマに「順伊おばさん」を書き公刊したが、「集会及び示威に関する法律違反」の咎で本は発禁処分となり、国防省の不穏図書と指定された。著者も二十日間拘留され、尋問、拷問を受け、釈放されてからもその後遺症に苦しんだという。1978年、朴正熙軍事政権の時代だ。韓国国会で「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定されたのはそれから20年後の1999年12月である。 

それを受けて、ようやく2000年になって北村里で合同慰霊祭が執り行われた。『・・告発の勇気どころか、合同慰霊祭をいちど堂々とやってみる意地すらなかった。余りにもひどい目にあわされた彼らなので、最初から恐れをなしてしまっているのだった。そう、彼らが欲しているのは、決して告発だとか報復ではなかった。ただ、合同慰霊祭をいちど盛大に行ない、慰霊碑を建立し、悲惨な死者たちの鎮魂をしようというだけのことだった』が、それを実現するまでには52年を耐えねばならなかった。

北村里における済州4・3事件全犠牲者443名の名が刻まれている正面の壁の前に祭壇がつくられていた。その脇には高齢のお年寄りが寄り添ってクッ(鎮魂の巫術)を見守っていた。遺家族のお孫さんにあたる若い世代が受付、参列者への昼食準備に交通整備と、きびきび立ち働いているのを見て胸が熱くなった。北村里遺族会会長は挨拶で「・・その日を決して忘れないために、本日ここに12回目の合同慰霊祭を執り行いますので、もう、こっそりとお越しにならず、足音高く、堂々とお越しください」と死者に呼びかけた。

私はこの「順伊おばさん」を20数年前に日本語で読んだ。父祖の地である済州島で起こった済州島4・3事件。知りたくともその実相はなかなか伝わってこず、この作品によって、初めて解放直後の済州島で何が起こったのかを皮膚感覚として捉えることができたのだった。私たち夫婦が済州島に移住して1年余、4・3事件の跡地をめぐる「4・3巡礼」に参加し、実際にその地を歩き、その場所に立って初めて4・3事件が実感として迫ってきた。いしもちが束ねられるように後手を針金に結わえられ数珠繋ぎにされて、殺されるために追い立てられた人々。書物で得た知識が、その地を歩き、潮風をあび、ごうごうと鳴る松林の音を聞いて、体感となったのだった。

作者の玄基榮は1941年に“失われた村”で産まれた。おびただしい人命が犠牲になり、飢えと恐怖が全島を支配した時期に幼少年期をおくった。海岸線から5キロ以上離れた中山間地帯を「敵性地域」とみなすという布告が出されたのは1948年10月17日である。村人たちに海辺の村に移住せよとの「疎開令」は周知徹底されていなかった。山間の村に突然あらわれた討伐隊は、海からの風を防ぐために石垣をめぐらせた藁葺き家に火を放ち、慌てふためく村人を暴徒もしくはその家族とみなし、老若男女の区別無く虐殺した。「焦土化作戦」によって人命被害が極限に達したのはこの時期であり、「北村里事件」はその最たるものである。

「順伊おばさん」は麦畑での集団虐殺からお腹の子とともに辛うじて生き残った。部落を焼き払われ、海辺の村に疎開し飢餓を耐え抜いたおばさんは、月満ちて女児を出産する。女手ひとつで娘を育て嫁がせ外孫も得たが、受けた傷はあまりに深かった。『遠くで軍人や巡警(巡査)の影がちらりとしただけでも怯え、道を避けていた神経症状』は歳月を経るごとに嵩じ、それは極端な潔癖症となり、ついには幻聴に悩まされるまでになっていた。集団虐殺から30年後、順伊おばさんは二人の子どもが埋められている窪み畑で青酸カリをあおり、眠るように死んでいる姿が発見される。『・・九九式歩兵銃の銃口から飛び出た弾丸が、三十年の紆余曲折の猶予を送り、いまになって彼女の胸を撃ち抜いた』のだった。

日常のそこかしこかで過去の悲惨が現れ出でる島―済州島。4・3事件とは、かろうじて生き残った人々にも癒えることのない傷であり、恨(ハン)であることが抑制の効いた筆致で描かれている。積年にわたって押さえ込まなければならなかった済州島民の憤怒と慟哭にかたちをあたえた、これは最初の文学作品なのだ。

 

金蒼生
1951年生。日本の大阪で生まれ育った在日二世。作家。著書に「わたしの猪飼野」「赤い実―金蒼生作品集」「イカイノ発コリアン歌留多」「在日文学全集10巻」所収。訳書「済州島四・三事件   第六巻」など。2010年 10月、済州島に移住。
 

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登録番号 : Jeju Da 01093   登録時間 : 2008年 11月20日   発行人 : 宋姃姬
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