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樹齢三百年の榎がある村
2012.02.17 (今) 金蒼生 contributor@jejujapan.com

 
   
▲ 樹齢300年の榎の大木        撮影:金蒼生

1時間に1便しか無い村のバス停には、300年を生きてきた榎の大木がある。済州の川は大雨が降らない限り水を湛えない。そんな済州島独特の川沿いの榎が梢を揺らしている。見上げれば、かささぎの巣。漢拏山の九十九の谷から漂いおりてくる精気が集まるところだからと、昔から文士を多く輩出した儒林の村、老衡(ノヒョン)。その近くの村で暮らし始めて1年余がたった。

昨年の10月末、私と夫は父祖の地である済州島で晩年を生きるために、ホテル2泊付きの航空券を手に済州島に向かった。住む場所も家も決めていなかった。安宿を泊まり歩きながら住む家を探すつもりの無謀な旅立ちだった。文学や演劇を通じて懇意にしていた済州島の若い友人が、ホテルに訪ねて来てくれた。家が見つかるまで何日でも居てください、辺鄙なところで不便かもしれませんが、と。村の名を聞いて鳥肌がたった。そこはかつて何度も道に迷い、出会う誰彼をつかまえては案内を乞い、ようやくたどり着いた両親と姉の墓所がある村だったのだ。世に偶然は無く、すべて必然だというが、この時の衝撃は今も鮮明だ。

思えば姉の急死がすべての始まりだった。14歳も年の差がある姉に私は育てられた。働きづくめの母になり代わり、遊びたい盛りの十代の姉は私にミルクを飲ませ、オムツを変え、私が小学校に入学するまで、どこへ行くにも私を連れ歩かねばならなかった。その姉が還暦を目前にして急死した。死とは予期できないことを思い知らされた。姉の死を契機に何度も自問した。私はこれからどう生きたいのか?私は日本で生まれ育ち、日本名で義務教育を終えた。私の母語は日本語であり、感性は日本語によって育まれた。その私が兄の無理強いによって、高校の三年間は民族学校に通った。本名を名乗り、祖国の歴史や言葉を学ぶ過程で、私の屈折が無知から生じていたことを思い知った。産まれる地を選べなかったと切実に思った。そしてやがて、晩年は済州島の現実の中に身をおきたい、済州島で生きなおしたいと思ったのだ。裕福なら簡単に実行できるかもしれないが、食べるにも汲々としていた私たち夫婦にとっては、さまざまな難関を乗り越えねばならなかった。ようやく準備が整って済州島に向かうことを決意したとき、私は姉が急死したその年齢に達していた。幾つものできすぎた符号に言葉もない。姉がここに導いてくれていた、と思わずにはいられない。

しばらくは家探しでさまようことになるだろうと覚悟していたが、ホテルを出た次の日には、東門市場で買った新しい布団にくるまって眠ることができた。10坪足らずの貸家である。台所と一間。外トイレ。深夜にトイレに行くには懐中電灯が必要だ。真冬にはパジャマのうえに厚物をはおる。首をすぼめて、ふと見上げた星空の息を呑む美しさ。「今夜も星が風に吹きさらされている」のだ。1945年2月、祖国解放を待たずして、福岡刑務所において27歳の若さで獄死した尹東柱(ユン・ドンジュ)詩人の詩の一節を思い浮かべる。肺腑に染み入る大気の清冽さ。徒歩8歩だが、雨が強いと傘を差さねばならない。しかし、ありがたいことに水洗だった。

済州島の若い友人たちが手分けし掻き集めてくれた、中古のテレビや冷蔵庫、テーブルに椅子、折り畳み傘に茶碗。その繊細な心遣いに涙した。在日済州人二世が済州島への愛止みがたく移住してきた、とその一点だけで私たちを受け入れ応援してくれたのである。

こうして私たち夫婦の済州暮らしが始まった。思いがけない偶然と好意により、ここに旅立つ前に予想していた困難をほとんど体験せぬままに、喜びと新鮮な驚きに満ちた1年が過ぎた。暮らすには不便であっても、この村を私たち夫婦は離れがたく思っている。畑を持たない私たちにとって、大根1本買うにもバスに乗らねばならない。この村には小さな雑貨屋が1軒あるだけだ。しかし、九十九の谷から漂いおりてくるこの村の気に勝るものはない。済州市内からバスに乗って終点のわが村に着くと、まるで空気が違うのだ。

聞けば、この家を斡旋してくれた人の弟夫婦が新婚時代をこの小さな家で暮らしながらお金を貯め、大きなアパートに移ったのだそうだ。1年ごとの契約なので、まだ権利が数ヶ月残っていたのだった。家捜しを一度もすることなく、契約が切れたその日、私たちは菓子折りを持って同じ敷地内にある家主宅を訪れ、正式に次の1年の契約を結んだのだった。 

   
▲ 村の4・3事件慰霊碑    撮影:金蒼生
村で一番小さい我が家から山道を10分ほど登ると、2002年に建てられた慰霊碑がある。『….1948年陰暦10月20日に疎開令が出され、住民たちは家財道具さえ持ち出せないまま下の村に下りて行った後、村は焼かれ灰となった。この渦中で50余名の住民たちが露と消えた。….記憶せよ、ここにも人々が暮らしていたことを、今は廃墟となり、存在さえも忘れられた恨(ハン)の歴史を思い起こせ….』と刻まれている。この辺り一帯は済州島四・三事件を今に伝える「失われた村」なのだ。1999年に私が初めて済州島のこの村を訪れた時には無く、三度目の墓参で真新しい慰霊碑を目にしたときの驚き。書物で学んだ血の歴史が眼前に立ち現れたのだった。いつか済州島で胸をはって暮らすために、せめて、これぐらいの努力はしたいと人の三倍辞書を引き、半年かけて『済州島四・三事件 第六巻』(原題は「四・三は語る」)の翻訳をしたのは2004年のことだ。その甲斐あって、ここ済州島の多くの人々と出会うことができた。榎の大木を仰ぎ、慰霊碑を過ぎて、さらに進むと墓所に至る。墓所に向かうその都度、慰霊碑の前で立ち止まり黙祷する。忘れません、心に刻んでいます、とつぶやく。


金蒼生
1951年生。日本の大阪で生まれ育った在日二世。作家。著書に「わたしの猪飼野」「赤い実―金蒼生作品集」「イカイノ発コリアン歌留多」「在日文学全集10巻」所収。訳書「済州島四・三事件   第六巻」など。2010年 10月、済州島に移住。

 

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登録番号 : Jeju Da 01093   登録時間 : 2008年 11月20日   発行人 : 宋姃姬
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