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「朝鮮市場」 (猪飼野と三河島)
2012.01.17 (火) 文京洙 contributor@jejujapan.com

  在日済州人の歴史  3


キムチの日本での膨大な消費量が物語るように、日韓の文化やライフスタイルが互いに浸透しあう今日では、日本人と韓国人の食生活や味覚の違いもそれほど大きなものではなくなっている。だが、済州人が日本に住み始めた頃、両者には相当な開きがあった。朝鮮人は豚・鶏などの肉類を多く食し、同じ魚を食べても種類とか味付けはかなり違っていた。チャリ(スズメダイで済州島人が好む食材)に象徴されるように済州人の食生活はさらに独特である。

   
  ▲ ①
朝鮮人の日本での定住が明らかとなりつつあった1930年代、その胃袋を充たす大小の「朝鮮市場(いちば)」が各地に生まれる。その最大のものが猪飼野朝鮮市場である。高正子によれば、当時、朝鮮市場は、現在コリアタウンのある御幸通り商店街の真ん中を南に入ったT字型路地に位置していたという(「食に集う街――大阪コリアタウンの生成と変遷」河合利光編『食からの異文化理解』)。1933年に発行された『アサヒグラフ』が「白衣と豚の頭が描く大阪の新名所「朝鮮市場」――大阪・猪飼野」と題してこの猪飼野朝鮮市場を紹介している(写真①②)。そこでは、「2年ほど前に、一人二人の人達が他の場所ではちょっと手に入らない彼らの愛好常食物を並べだしたのが」始まりであったとされる。

だが、金賛汀の聞き取りによると、朝鮮市場が生まれたのは「昭和の初期」、つまり1920年代後半、しかも「日本人による朝鮮人差別をテコに生まれて来た」とされる。日本人の商店ではアジュモニたちが「朝鮮人に売る物はない。チョーセンは帰れ!」と罵られることも少なくなかったという。そうした女性たちが近くの野から採ってきたセリやゼンマイを露店ふうに細々と売るようになったのが始まりだったという。

   
  ▲ ②
ともあれ、こうして始まった市場が、「大阪在住13万3千人の鮮人(ママ)達の支持をうけて半町(50メートル余り)たらずの処に50軒近い店が目白押しに並ぶ」ほどになり、「牛の臓腑、豚の頭、ふか等と食物界のグロ」、「明太魚」「もやし」「チャリ」「靴」「布地」などが商われ、「煙管(竹のキセル)」など朝鮮人専用の「小間物屋」まで備えた「大阪の新名所」になった。市場の雑踏を切り取った『アサヒグラフ』の解説は、「ここばかりは日本語よりも朝鮮語の方が巾がききます。豚とニンニクと臓物の臭気に、棒と丸で出来た朝鮮文字のカクテル、その中を白衣の群が泳ぎまわるオールトーキーです」と、息苦しい軍国主義の時代の陰がさしながらもどこか長閑な気分を漂わせている。食材の一つ一つに解説が付され、チャリについては「100%刺激物です。日本人の胃袋なら完全に気絶してしまいます」とある。そして市場には「毎日1万人近い人が買い出しに来る繁栄ぶりで…今に此処を中心に素晴らしい完備された朝鮮市場が出現することでしょう」と結ばれる。

ところで、日本に住む済州人が5万人とピークに達した34年、済州人の出稼ぎは、大阪以外にも北は北海道・樺太、南は台湾・南洋まで及んでいた(『枡田一二地理学論文集』)。京都や兵庫などの近畿圏はもちろん、東京にも2000人近くの済州人が住み、小規模であるが各地にコミュニティが生まれた。東京の済州人のコミュニティとして最も知られているのは三河島であろう。三河島が位置する荒川区の現在の人口は19万人ほどでそのうち7千人余りが韓国・朝鮮籍、JR常磐線の三河島駅を中心に今でも在日の病院、総連や民団の支部、さらに「日本で最初の朝鮮学校」(荒川区史)などがある。ニューカマーの韓国人も多くハングルの看板をかかげた焼き肉店や美容院、旅行代理店、食材や雑貨店などがたち並んでいる。三河島駅を降りて東に2、3分ほど歩くと、左に入る路地に沿って食材店が数件集まった朝鮮市場(写真)があるが、ここはなぜか市場とはいわず「朝鮮マーケット」と呼ばれてきた。地元の済州人はもとより、遠方から訪れる客も多く、最近ではキムチ、豚足、チャンジャなど本物の味を知る日本人の客も少なくないという。

   
▲ (左)、(右)現在の三河島の朝鮮マーケット    撮影 : 文京洙

戦前、この三河島辺りは東京市(東京の市制開始は1889年)外郭の郷村地域(北豊島郡)であった。この地の市街化は、上野・浅草など市内にあった履物産業や、カバンなどの皮革産業、屠殺場などが移され始めた1890年代にまで遡る。履物もカバンも零細な家内工業を営む在日済州人に縁の深い産業であり、屠殺場から排出される豚の耳、しっぽ、内臓などは、済州人にとっては最高の食材となった。例によって荒川区にも第1次大戦以降に急激な人口流入(1910年の4万人から1925年には20万人以上となった)があり、朝鮮人の数も1928年には3千人近く、荒川区の誕生(1932年)を経た1937年には5千人近くにまで膨らんだ。このうち半数近くが済州人、三河島ではとくに高内里(涯月面)出身の済州人が多い。軍需関係の官営工場の下請け会社で成功した高内里の人が故郷の友人や親族を呼び寄せたのがきっかけであったと伝説のように語り継がれている。

三河島の済州人コミュニティの拡大は解放後も続いた。南北分断、四・三事件、そして朝鮮戦争と続く混乱期に、日本に逃れたり、帰郷したもののふたたび舞い戻って来た沢山の済州人のこの上ない拠り所となったのである。

 

文京洙
1950年東京生まれ、父母が旧左邑金寧里出身。日本の中央大学卒、国際基督教大学教養学部助手などを経て、現在、立命館大学国際関係学部教授。主な著書に『済州島現代史――公共圏の死滅と再生』新幹社、『韓国現代史』岩波新書、『在日朝鮮人問題の起源』クレイン、『済州島四・三事件:島(タムナ)のくにの死と再生の物語』平凡社などがある。1988年から 年まで在日の「四・三事件を考える会」会長をつとめ、現在も関西を中心に四・三事件のとりくみをおこなっている。

 

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