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猪飼野、「済州人の第二の故郷」
2011.12.14 (水) 文京洙 contributor@jejujapan.com

  在日済州人の歴史   3 

 

   
▲ 現在の行政区画による生野区・東成区と猪飼野
 植民地期の済州人の最大の結集地はなんと言っても大阪の猪飼野(いかいの)であった。かつて猪飼野という町名を冠した地区は、現在の生野区を中心に東成区にかかる一帯を占めていた。生野区にはいま(2010年現在)でも2万7600人余り(区人口の20%余り)のコリアンが住み、その70~80%は済州島出身者で占められているという。JR桃谷駅から東に500メートルほど離れた一帯にはかつて「猪飼野朝鮮市場」と呼ばれた日本最大のコリア・タウン(地図の楕円で囲んだ一帯)がある。まさに猪飼野は、済州人の第二の故郷、もしくは「済州島の飛び地」と呼ぶにふさわしい。
 
  猪飼野の一帯は、はるか飛鳥時代には「百済郡」と呼ばれ、半島からの渡来人が住みついた土地でもある。コリアタウンの西端に鎮座する御幸森(みゆきもり)神社には、万葉仮名・かな・ハングルの文字で刻まれた「難波津の歌」の碑が建立されている(写真)。この歌は百済から渡来した王仁(ワニ)博士が仁徳天皇の即位に因んで詠んだものとされている。
 
  東成区から分かれて生野区が誕生したのが1943年、戦後、猪飼野は生野区猪飼野町となった。惜しいことに、73年の行政区画の改変で猪飼野という地名が地図上から消えた。東成区時代の猪飼野は、いまの生野区の桃谷、鶴橋、中川、田島、さらには東成区の玉津、大今里西のそれぞれ一部を含み(地図の黒線で囲んだ部分)、ほぼ中央には平野川が縦断した(青の直線)。ところがこの平野川はひどく曲がりくねり、大雨のたびに氾濫したため、これを直線に付け替える改修工事があり(21年着工、23年竣工)、それには沢山の朝鮮人土工がたずさわった。
 
   
▲ 難波津の歌碑
  かつては、その土工たちが、工事が終わった後もそこに留まって朝鮮人の集住が始まったとされていた。だが、金賛汀によれば、猪飼野での済州人の集住は、「平野運河の建設労働者である朝鮮人土工とは違ったルートからこの地にやって来た」人びとから始まったという(『異邦人は君が代丸に乗って』)。そもそも、済州人は、建設現場の土工や炭鉱の鉱夫よりも、零細とはいえ工場の労働者として働くことが多かった。大阪での済州人の生業は、男はゴムや金属などの職工、女は紡績工というのが定番であった。

  金賛汀によれば、猪飼野にそういう済州人が住み始めるのは1922年以降であり、25年にはすでに、当時、猪飼野をカバーしていた鶴橋警察署の管内には、一戸平均14人を住まわせる朝鮮人の下宿屋が171軒もあった。在日済州人全体の数も23年の1万人余りから30年代前半の5万人前後に急増する(済州島廳『済州島勢要覧』)。
 
  朝鮮人の日本への渡航全般についていえることだが、第1次世界大戦をきっかけに劇的にすすんだ日本の重化学工業化が、猪飼野に済州人を呼び寄せるつよい誘因となっていた。その辺りの事情を人類学者の舛田一二は、急激な工業化によって内地労働者が著しく不足し「ついに労働力を絶海の弧島済州に求めるに至った。すなわち紡績工場その他の会社事務員が職工募集のため来島し、これに応募して大阪に渡航した島人は優良職工として認められて需要度が増加」し、さらに「出稼ぎ帰還者の物質生活の向上と内地紹介に刺激され、多数の渡航者をみた」と書いている(『枡田一二地理学論文集』)。植民地化以前の済州には綿花の手紡家内工業が成長し、その経験が基礎にあって「優良職工」を生んでいたのかもしれない。都市人口の急増によって、猪飼野のような、アシの茂る大阪市の外郭でも整地やインフラ建設がすすんで新参の異邦人を迎え入れる受け皿となっていた。さらに、なんと言っても1922年の「君が代丸」の就航が済州人の大阪行きに拍車をかけた。済州・大阪間の直航路が開かれたことで、それまでの釜山・下関経由にくらべて旅行日数は二分の一、旅費は三分の一となっていた。もちろん、植民地化による土地収奪や日本漁民の進出、さらに日本の工業製品の参入が生活破綻をうみ、島民を出稼ぎへと追いやっていたことを忘れてはならない。
 
  当初、猪飼野にやって来た済州人は、たいていの場合、朝鮮人の経営する下宿屋に住んで工場に通った。下宿屋はいつも寿司詰めで、3年に大阪市が「市内朝鮮人下宿屋20家」を調査したところ、実に一畳あたり2・17人弱が住んでいたという。そんな下宿屋にも住めず鶏小屋に住んだものも少なくなかったという。やがて出稼ぎが長期にわたり、下宿屋から出て借家に住むものも増え、ところどころに「朝鮮人町」が形成され始める。だが、当時、日本人は朝鮮人に家を貸すことを嫌い、甚だしきは「犬と朝鮮人はお断り」と張り出す家主もいたという。だから済州人が借りることが出来たのは低湿地で大雨が降ると床上まで水浸しになるような、日本人ならとうてい住まない借家がほとんどだった。
 
   
▲ (左)現在のコリアタウン (右)現在の平野川 撮影:文京洙

  済州人は、陸地(朝鮮半島部のこと)の朝鮮人からも差別される存在だった。猪飼野には、当初、陸地出身の朝鮮人も多く、その一部はアリラン団という暴力団まがいのグループをつくって済州人とみれば暴行やゆすり・たかりを繰り返した。だが、25年にこのアリラン団は、済州出身の若者の反撃にあい、ちりぢりになって猪飼野から消えた。猪飼野はますます、済州人が互いに助け合い、新参の済州人を保護する「済州人の街」の色合いをつよくした。やがて家族を呼び寄せ、子を儲けてここに根を張る済州人も増えて、この地に済州人の一大コミュニティが形づくられていく。


文京洙(プロフィール)
 
1950年東京生まれ、父母が旧左邑金寧里出身。日本の中央大学卒、国際基督教大学教養学部助手などを経て、現在、立命館大学国際関係学部教授。主な著書に『済州島現代史――公共圏の死滅と再生』新幹社、『韓国現代史』岩波新書、『在日朝鮮人問題の起源』クレイン、『済州島四・三事件:島(タムナ)のくにの死と再生の物語』平凡社などがある。1988年から98年まで在日の「四・三事件を考える会」会長をつとめ、現在も関西を中心に四・三事件のとりくみをおこなっている。

 

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